有「修」無類 紙質文物修裱專家

吳哲叡
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2018 / 3月

文‧陳亮君 圖‧莊坤儒


「蠹魚是吃書的,你書要夠多就會來吃,書多了以後,我不是主人,我要侍奉這些書,每天看每天整理,所以我是蠹樓僕人。」吳哲叡認為,光有修復的技術還不夠,必須不斷地閱讀與研究來延伸學習,並透過團隊無私的分享,讓創意加成,將技術傳承下去。

 


 

走進大師的工作室,牆上有他獨創的永久春聯,「這永遠不會壞,後面是油畫布,油畫布上面刷壓克力顏料……」吳哲叡興奮地介紹他的創作。環顧四周,有字畫、有手作的復刻手卷,甚至是拓片,可見他涉獵之廣,已超過一般裱褙師傅的興趣範圍。現任台北市文獻會顧問的他,是怎麼樣的機緣,讓他一頭栽進裱褙與修復的世界,這要從他小時候說起。

耳濡目染下的身教

鮮少人知道,吳哲叡的爺爺是台灣早期歌仔冊的知名作家梁松林,梁氏是台北萬華人,編寫歌仔冊數量為全台之冠,最著名的是1936 年前後,由台北周協隆書局連續發行的《三伯英臺歌集》(共55 本,各本另編歌名)。因為他是入贅,所以生的第一胎要跟太太姓吳,也就是吳哲叡的父親,全盛時期在萬華西園路一帶,至少有20間房子。

但擁有一個才氣縱橫的爺爺對他們家並沒有多大的幫助,因為梁松林後來沉迷於賭博與抽鴉片,敗光了家產,晚年窮困潦倒。因此,吳哲叡的父親從小就告誡他:「你看看你爺爺,賺了那麼多錢,到後來也是沒有。你是我的小孩,我選擇不貪污,那你們就窮一點,跟著我這樣過。」

服務於中央魚市場的吳爸爸,每天清晨1時就要去上班,到10點多回家休息,一有空就看書、寫字,他常跟吳哲叡說:「做你喜歡做的事,做到鞠躬盡瘁,全力以赴後還沒有成功,那就認了。」當時吳媽媽在家幫人訂做女裝,他從旁看著媽媽幫人打版、縫紉,訂做衣服。從小功課不好的他,在當時萬華龍蛇混雜的生長環境,如果說沒有學壞,很大一部分要歸功於父親的正直與勤勉,而他的好手藝,則是傳承自媽媽的一雙巧手。

凡走過必留下痕跡

吳哲叡進入格致中學就讀後,上課以外的時間,就跟著在復興美工念書的好友,一起製作當天的作業。當天老師上什麼,朋友就會回來跟他分享,而且常常是做到半夜2~3點才結束。吳哲叡笑說他朋友在學校術科成績非常優秀,一半要歸功於他的協助。但是對他來說,這段期間的學習,奠定了他日後對於調色與色彩運用的基礎。

畢業後,喜愛文具的他,去文具行幫忙送貨,直到入伍當兵為止。沒想到一退伍,文具經銷的老闆叫他回去上班,但這次不是送貨,而是請他當業務。原來吳哲叡在送貨時,不只是貨送到簽了就走,還會主動跟店家聊天,觀察是否還缺什麼,有時還會寫訂單回來。這讓老闆很訝異,因為從來沒有送貨員還寫訂單回來的。吳爸爸跟他說:「你天生就是做業務的,這是遺傳到爺爺八面玲瓏的個性,所以才有辦法打下一片天。」

做了文具業務2年後,發現自己還是比較喜歡做衣服。一開始不知該如何做起,就先從賣服裝雜誌開始。用賣服裝雜誌給服飾店的機會,趁機摸熟了各店家的特色。最後選擇了三重一家專門做外銷的服飾公司,擔任裁剪的工作,學到了許多布料的知識。之後又陸續進修打版與設計,甚至與朋友合夥開了成衣廠,直到要增資時,因為沒錢投資,而被迫離開。

學習裁剪、打板、設計的這些年,除了上班外,吳哲叡一有閒暇,就去進修相關知識與技巧。現在回想起來,這種勤學的個性,實是受到父親的影響,「我爸爸一直給我講一個觀念,你學東西不能只學一樣,你最好是一整個環節都要會。」之後又陸陸續續做了洗皮衣、訂做飯店客戶襯衫等工作,在這時終於迎來了他人生當中的第一個轉機。

因緣際會下的邂逅

吳哲叡在幫外國人訂做襯衫時,常需要繡英文名,而當時會繡的人不多,於是他到台北市職訓局去學電繡,「我們不是只有繡英文,還有繡花鳥、山水,繡完後很皺,就需要裱褙。」沒想到當他一接觸到裱褙,竟發覺怎麼那麼好玩。加上吳爸爸長年在寫書法,一個寫得很快樂,另一個則是裱褙得很快樂。學完以後,就想說自己開業。但問題來了,在實際接觸客戶各式各樣的裱褙需求後,發現這行真沒那麼簡單,於是就開始他的拜師之路。

吳哲叡印象中,有一次為了要學一種叫「冊頁」的裱褙技巧,交了2萬元請老師指導。因為之前他在書上已看過冊頁裱褙的整個過程,第一天上課就問了4個問題,可是那老師沒有一個回答得出來,「他說你愛學不學,我說好,你講這樣子,我一輩子會記得你。」吳哲叡當機立斷說那2萬元他也不拿回來了,因為人可失去金錢,但時間是什麼都換不來的。在台灣社會裡,很多師傅不敢教,他會擔心教了後,你要出去自立門戶,就會跟他打對台,所以要不是不教,不然就是亂教,那怎麼辦呢?

山不轉路轉,既然無法直接從師傅那學到裱褙技巧,他就去賣裱褙材料,並選了當時最大的和泰裱褙材料公司,應徵當業務。也是那麼湊巧,那家公司的老闆因為癌症末期,找了他的乾女兒回來當會計做帳,並準備結束營業。

「我說我好不容易找到你們,你們再收掉,台灣就沒有幾家了。」那會計回他說老闆已過世,沒有人可跑業務。吳哲叡就自告奮勇,接下這已經營二十多年的業務重擔,再成功說服老闆的乾女兒向乾媽頂下這家公司。因為乾媽對於先生所留下的不動產不知該怎麼處理,既然自己乾女兒要承接,自然樂見其成。

此後,吳哲叡在送貨之餘,也一邊在觀摩店家的技法,「因為我有學過,我知道這個人手法好不好,他做到一半不能停啊,那我就可以看。」有時也會幫忙拉個紙、擦擦桌子。因為是各個裱褙店的上游廠商,又跟各家老闆成為好朋友,時常在一個店家就待上許久,而忘了送貨。

一整天送貨兼觀摩結束後,就趕緊回家嘗試今天見識到的技巧。練習時發現問題,下一次就找個藉口,就算對方沒訂貨也要過去。就這樣不斷地觀摩與學習,吳哲叡後來的三十幾個師傅都是沒有在拜師的,「這些師傅也都跟我很熟,他說原來你一直在那邊,就是在學東西。」吳哲叡笑說。而因緣際會下邂逅的不只是遇上裱褙這件事,當初老闆的乾女兒,最終也成為了他的太太。

人生第二個轉捩點

機會總是會留給準備好的人,吳哲叡迎來了人生中的第二個轉捩點。台北市兒童育樂中心每年歲末時都會舉辦一個傳統回顧展,有做風箏的,也有賣糖葫蘆的,而他就在現場做一些裱褙的推廣教學。

剛好有一位母親帶著女兒前來逛展,因為接近收攤的時間,其他攤位都已收得差不多了,「她說別家都收了沒得看,有點可惜,我說沒關係,妹妹喜歡,重新收完的東西又拿出來,開始裱畫給她們看。」也由於這個機緣,讓他與時任台大圖書館特藏組組長洪淑芬互換名片,才有後來歷時8年,與其他7位夥伴一同修復完成的《淡新檔案》歷史文獻。而《淡新檔案》的修復,讓這橫跨清乾隆41年(1776)至光緒21年(1895)之淡水廳、台北府城,以及新竹縣的行政司法檔案,共約1萬9000件,得以恢復往昔風貌。

緊接著,日本帝國大學線裝書的挑戰隨之而來,也在台大圖書館的引薦下,跟國家圖書館裡的師傅學習線裝書的修復技法。從字畫跨到檔案,再到書籍的修復,目前國內能精通這三樣的師傅寥寥可數,他回憶起當時的情景說:「我的工作是一天18個小時,到現在還是一樣。我在台大上班的時候,白天上班,人家叫的貨,我太太整理好,晚上我們就車開著,連同小孩,一起去送貨,我們就這樣過了7~8年。」

不斷地創新與傳承

紙張放久了會老化,老化就變色,要找原紙找不到,就要用新的去染。「有花椒、黃蘗、紅茶與墨,像這個是4種顏料去混的,這張又不一樣了。」吳哲叡翻出他所研發的各種彩紙,可當修復時的工具,也可當藝術家揮毫時的特殊用紙。有一款取名叫「夏風」的紙,是在一次偶然機會下發掘出來的,當時房子淹水,清完水後發現有些立在地上的紙,因著水線呈現出獨特的紋路,很漂亮。後來根據水的量和紙的鬆緊度,在不斷地研發改良下,才產生出這紋路特殊的紙張。

「我在學裱褙的路上,走了很多冤枉路,也遇到很多不好的老師。」吳哲叡教徒弟的理念很特別,在他的團隊裡絕不會藏私,因為唯有這樣,大家才能貢獻出自己所研發出的成果,也才會有源源不絕的創意與動力,而他的責任就在於引導出每位學員的獨特性與潛能。

目前正跟著他學習的越南籍學生裴進福,在越南漢喃古籍研究中心時,就已在做古籍的蒐集跟整理。後來來到台灣就讀佛光大學文化資產與創意學系碩士班,暑假時參加由國家圖書館舉辦的圖書修復研習,就在那裡接觸到吳哲叡老師,他說:「我覺得越南那邊很需要這種修復技術,老師的個性很幽默,而且不單會做,還很會教。前一陣子,老師還去馬來西亞、越南傳授古籍修復的知識。」

另一位畢業自台北科技大學創新設計所的周維修,本身就對修復文物感興趣,她覺得吳哲叡老師人非常親切,有問題請教一定會說,不會藏私,她說:「我來之前就查過蠻多相關資訊,做的東西跟我想的沒有落差很大,確實是我想要追求的。」

吳哲叡認為修復古物有一定的歷史責任,有人拿家裡單傳的南管手抄樂譜前來修復,他說可不收錢,但希望能掃描成影像檔,給台北市文獻會收藏。因為這三百多年的曲譜,很多已失傳,經修復後,這樂曲可能又有機會重新演奏出來。未來,吳哲叡希望能夠修復出土的紙本文物,是否能有這樣的機緣很難說,因為他一路走來的歷程,又何嘗不是一次又一次的驚喜與邂逅呢。

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どんな紙も修復する

文・陳亮君 写真・莊坤儒 翻訳・山口 雪菜

「書を喰う蠹魚(シミ)は、書がたっぷりあればやってくる。書が増えると、私は主人ではなくなり、書に仕えなければならない。毎日開き、毎日整理し、そうして私は蠹楼の下僕となる」呉哲叡は、修復の技術だけでは十分ではないと考える。絶えず書を読み、研究を重ね、チームで経験と技術を分かち合い、創意を重ねていかなければ技術を引き継いで行けない、と。


作業場の壁には永久保存できる春聯がかかっている。裏はキャンバスで、上にアクリル顔料が塗ってあるのだと言う。作業場の周囲を書物が囲み、その渉猟する分野の広さは一般の表装師の域を越えている。台北市文献会の顧問を務める彼は、どのような縁があって表装と古書修復の世界に入ったのか。物語は幼い頃から始まる。

実直な父の教え

知る人は少ないが、呉哲叡の祖父は実は台湾の著名な歌仔冊(台湾オペラの脚本)作家、梁松林である。梁氏は台北万華の人で、制作した歌仔冊の数は台湾で最も多い。中でも有名なのは1936年頃、台北周協隆書局が出版した全55冊の『三伯英臺歌集』である。梁松林は婿養子だったため、第一子は妻の姓である呉を名乗った。それが呉哲叡の父親である。最盛期には一家は万華西園路一帯に20軒もの家を持っていた。

だが、才気あふれる祖父から呉哲叡が受けた影響は多くはない。梁松林は後に賭博とアヘンに溺れて資産を使い果たし、みじめな晩年を送ったのである。それを見て育った父は呉哲叡に言い聞かせた。「お爺さんを見てごらん。あんなに稼いだのに、最後は何もなくなった。お前は私の子供だ。私は不当な金品は受け取らないから家は少し貧乏だが、私のようになりなさい」と。

呉哲叡の父親は中央魚市場に勤務していて、毎日夜中の1時に出勤し、10時に帰って来て休んだ。そして暇さえあれば書を読み、字を書いていた。そして「お前は自分の好きなことをやりなさい。全身全霊をかけてやり切って、それでも成功しなかったらあきらめればいい」と言った。呉哲叡の母親は洋裁の仕事をしていて、頼まれると型紙から起こして裁縫をしていた。勉強があまりできなかった呉哲叡は、万華の不良少年の中で育ったが、悪くならなかったのは正直で勤勉な父のおかげであり、また手先の器用さは母親譲りだと語る。

学習と経験の積み重ね

呉哲叡は格致中学に進学すると、授業以外の時間は復興美工(美術系高等学校)に通う友人の宿題を一緒にやっていた。友人はいつもその日に学校で習ったことを教えてくれ、夜中の2時、3時まで一緒にその宿題をやっていた。その友人は学校での成績が良かったが、その半分は自分のおかげだと言って呉哲叡は笑う。この時期の学習が、その後の色彩運用の基礎になった。

卒業後、文房具が好きだった彼は文具店の配達の仕事に就き、兵役までその仕事をつづけた。兵役を終えると、思いがけず文具店の社長から戻ってこないかと言われた。今回は配達ではなく営業をやってほしいと言う。実は配達をしていた時、呉哲叡は顧客と話をし、不足しているものはないか観察して注文を取ってくることもあったのである。文具店の社長にとって、配達員が注文を取ってくるのは初めてのことだった。その時、呉哲叡は父親から「お前は生まれながらのセールスマンなんだな。それはお爺さんの如才なさを受け継いでいるからだろう」と言われた。

こうして文具の営業を2年間続けたが、自分は洋裁が好きなことに気付き、洋裁の勉強をしたいと思った。だが、どこから手を付けていいのか分からないので、まずはファッション雑誌の販売から始めた。服飾店にファッション誌を届けるうちに顧客と親しくなり、最終的に三重にある輸出専門のアパレル会社で裁断の仕事に就き、布地に関する知識を深めていった。その後、型紙作りやデザインも学び、一度は友人と一緒に既製服メーカーを立ち上げた。だが、増資する時に彼は資金がなく、辞めざるを得なかった。

裁断、パターン、デザインを学ぶ間、呉哲叡は暇さえあれば関連する知識や技術の習得に励んだ。振り返ると、こうした勤勉さは父の影響だと思う。父は、何かを学ぶ時、一つだけでなく関連する全体を学びなさい、と彼に言い聞かせていたのである。その後も、皮革製品の洗濯をやったり、ホテルの外国人宿泊客からオーダーメイドのシャツの注文を受けるなどしていたが、そんな頃、最初の転機が訪れた。

ひとつの出会い

外国人のためにオーダーメイドのシャツを作っていた時、刺繍でイニシャルを入れる必要があったが、当時は刺繍のできる人が少なかった。そこで彼は台北市職業訓練局にコンピュータミシンを使った刺繍を学びに行った。アルファベットだけでなく、花鳥や山水もあり、刺繍を施した後は皺になるので、表装する必要があった。その表装が楽しくてたまらなくなったのである。そこで父の書を表装していき、上手になるとこれで開業したくなった。だが、実際に顧客に接触すると、表装に対する要求はさまざまで、そんなに簡単ではないことがわかり、弟子入りして学ぶことにした。

ある時「冊頁」という表装技法を学ぼうと思い、2万元の謝礼を包んで師匠に教えを請うた。そのまえに書物で冊頁の工程を学んでいたので、最初の授業の時に4つの質問をしたところ、師は一つも答えてくれず、不真面目なやつだと言うだけだった。呉哲叡は、その場で2万元は無駄になっても、この人に教えを請うのはやめようと思った。お金は無駄にできても、時間を無駄にすることはできないからだ。台湾の多くの職人は人に教えようとしない。教え子が独立して競争相手になることが心配だからなのである。

だが、道は自ずと開けるものだ。職人が教えてくれないのならと、彼は表装の材料を買ってきて、当時もっとも大きかった和泰裱褙材料公司の営業マンに応募した。ところが、ちょうどその頃、同社の社長は末期がんを患い、経理専門の義理の娘に会社の廃業手続を頼んでいた。

そこで呉哲叡が「せっかく働きたい会社を見つけたのに、廃業してしまったら、台湾には表装材料問屋は何社も残らないじゃないですか」と言うと、その義理の娘は「社長が亡くなったので、営業する者がいないんです」と言う。そこで呉哲叡は勇気を出してこの会社の営業に責任を持つと話し、彼女を通して会社を買い取る話をつけたのである。

その後、彼は配達をしながら表装・表具店の職人の技法を観察していった。「自分で勉強していたので、職人の腕の良し悪しは分かりました。表装はやり始めたら止めることができないので、最後まで観察することができました」と言う。時には紙を引っ張ったり、机を拭いたりして手伝った。表装店と材料問屋という関係で、各店の経営者とも親しくなり、配達を忘れて長居することもあった。

こうして一日中表装店で職人の作業を見た後、家に帰って自分で試してみた。疑問があれば、また口実を作って表装店を訪ねる。こうして観察と練習を重ねて、30人以上の職人の技を盗んでいった。「これらの師匠とも親しくなり、お前はずっと横で学んでいたのか、と言われました」と言う。こうして不思議な縁から表装の世界に入り、当初の経営者の義理の娘を妻とすることとなった。

人生第二の転機

チャンスは準備のできた人に巡ってくる。呉哲叡にも人生第二の転機がやってきた。ある年、台北市児童育楽センターで毎年末に開かれる伝統回顧展で、彼は表装の実演を行っていた。

当日の終了間近になって、ある母娘がやってきた。他のブースはほとんど終了してしまっていたが、「お嬢ちゃんが見たいなら、と思い、仕舞いかけた道具を取り出して表装を見せてあげました」と言う。これがきっかけとなり、当時の台湾大学図書館特蔵組の洪淑芬組長と名刺を交換することとなり、その後8年をかけて、他の7人とともに歴史文献『淡新檔案』の修復を行なうことになったのである。『淡新檔案』というのは、清の乾隆41(1776)年から光緒21(1895)年までの淡水庁や台北府城、新竹県の行政・司法文書で、合計1万9000点を修復してよみがえらせたのである。

これに続いて、日本帝国大学の線装本の修復を引き受けることとなり、台湾大学図書館の紹介で、国立図書館の職人から線装本の修復技法を学んだ。書から文書、そして書籍の修復まで、この三つができる職人は国内でも数えるほどしかいない。「私は今でも1日18時間働いています。台湾大学で働いていた時は、昼は修復の仕事をし、店に注文があると、妻が整理して夜に子供と一緒に車で配達に行きました。こういう暮らしが7〜8年続きました」と言う。

革新と伝承

紙は古くなると変色するが、それと同じ紙が見つからなければ、新しい紙を染めて使わなければならない。「これは山椒、キハダ、紅茶、墨の四種類の顔料を合わせたもの。こちらはまた違います」と呉哲叡は自分で開発したさまざまな紙を見せてくれる。これらは古書画の修復にも使えるし、書家や画家が新しい作品を描くのに使うこともできる。呉哲叡が開発した「夏風」という紙は、偶然のきっかけから生まれた。ある時、彼の家が水害に遭い、水が退いた後、壁に立てかけてあった紙に縞模様ができていて、それが美しかった。そこで水の量と紙の伸び縮みを見ながら研究を重ね、縞模様の美しい紙を作り出した。

「表装を学ぶ中で、ずいぶん回り道もしましたが、多くの素晴らしい師にも巡り合いました」と話す呉哲叡は、徒弟関係に特別な理念を持つ。彼のチームでは、持てる技術は全て互いに公にして教え合う。そうしてこそそれぞれが研究した成果が共有でき、さらに創意が発揮できるからだ。そして彼の責任は、生徒たちの独自性と潜在能力を引き出すことにある。

現在、彼に学んでいるベトナム出身のブイ・ティエン・フックさんは、ベトナムの古書研究センターで、収集と整理をしていた経験がある。後に台湾の仏光大学文化遺産・創意学科の修士課程に留学し、夏休みを利用して国立図書館が行なう図書修復研修に参加して呉哲叡に出会った。「ベトナムではこうした修復技術が必要とされています。呉先生はユーモラスで、修復の腕が良いだけでなく、教え方も非常に上手です。しばらく前、先生はマレーシアやベトナムへも古書修復の知識を教えに行きました」と言う。

もう一人の生徒は、台北科技大学創新設計大学院を修了した周維修だ。もともと文物の修復に興味を持っていた彼女は、呉先生は非常に優しく、聞いたことは何でも教えてくれると言う。「先生に学ぶ前にさまざまな情報を集めましたが、ここで学んでいるのは私の想像と落差はなく、私が追い求めていたものです」と言う。

呉哲叡は、古物の修復には歴史的責任があると考える。例えば、ある人が家に伝わる南管(伝統音楽)の手書きの楽譜を持ってきて修復を依頼してきた時、呉哲叡は修復の代金は受け取らず、代わりにその楽譜をスキャンして台北市文献会に収蔵させてほしいと頼んだ。三百余年前のこうした楽譜の多くはすでに失われているからだ。これを修復すれば、いつか誰かが再び演奏する機会があるかも知れないのである。呉哲叡は、いつか出土した紙の文物の修復をしたいと考えている。そのような機会がないとは言えないだろう。呉哲叡のこれまでの人生も、数々の思いがけない縁と出会いの積み重ねだったのだから。

Paper Conservator Extraordinaire

Ivan Chen /photos courtesy of Chuang Kung-ju /tr. by Jonathan Barnard

“Silverfish eat books,” explains Wu Jer-ruey. “If you’ve got enough books, they will come and gorge on them. Once that happens you are no longer your own master. You become the servant of the books, needing to look after them every day. In a sense, you become a servant of bugs.” Wu believes that when you are a paper conservator, simply having repair skills is not enough—you’ve got to continually read and research to extend your knowledge. Then you need to selflessly share that knowledge with your team and encourage innovation, so that your skills are passed down.


The chain of events that propelled Wu, currently serving as a consultant to the Tai­pei City Archives, to enter the realm of art mounting, bookbinding and restoration, stretches back to his childhood.

Parental role models

Few people know that Wu’s grandfather was ­Liang Song­lin, a famous writer of Taiwanese ballads during the Japanese era. ­Liang lived in the Wan­hua neighborhood of Tai­pei, and his output of songs was unrivaled. His most famous work was “The ­Sanbo and Ying­tai Song Collection.” Because he married according to the custom of ru­zhui, whereby the groom goes to live with the bride’s family to carry on the line of a sonless family, ­Liang’s first son, Wu Jer-ruey’s father, took his wife’s surname. At the peak of his wealth, ­Liang owned at least 20 houses.

But having a talented grandfather wasn’t much help to Wu, because ­Liang would end up squandering his fortune through gambling and opium. His later years were spent in poverty. Consequently, Wu Jer-ruey’s father told him from a young age: “Look at your grandfather: He made so much money and ended up losing it all. You are my child. I have chosen not to be corrupt, so you will have to be poor with me.”

Wu’s father worked at the Central Fish Market in Wanhua. He’d get up at 1 a.m. and get off work after 10 a.m. Whenever he had spare time, he would read and write. Wu’s mother earned money by working at home as a seamstress, making women’s clothes to order. Wu would watch her cutting out patterns and sewing the garments together. He was never a particularly good student, and Wan­hua back then offered many paths to go astray. His father’s diligence and honesty deserve much of the credit for Wu’s hewing to the straight and narrow. But he inherited his dexterous hands from his mother.

The tracks of time

Wu attended Ger-jyh Senior High School in San­chong, Tai­pei County (now New Tai­pei City). After school he would do his homework with a good friend who attended the Fu-Hsin Trade and Arts School. That friend would share what his teachers had taught that day. The two would often work together until 2 or 3 a.m. He regards that period as building a foundation for his later skills in color toning and applications.

A lover of stationery and writing implements, he worked as a delivery man for a stationery supply firm after he graduated and before he performed his military service. Upon his leaving the military, his old boss at the stationery firm, much to Wu’s surprise, asked him to come back to work, but this time in sales. It turns out that when delivering supplies, Wu had not only unloaded goods and asked for signatures but had also chatted with stationery store proprietors, seeing if they lacked anything and occasionally coming back with orders.

After working at the firm for two years, Wu determined that he preferred to make clothes. At first he didn’t know where to begin, so he started by selling fashion magazines to clothing shops. That gave him an opportunity to become acquainted with the individual style of each shop. Eventually he ended up choosing to work as a cutter for a company in San­chong which made clothing for export. He learned a lot about fabrics there. Later he went on successively to study pattern making and design, and he eventually opened a finished garment factory with friends as partners. But when they needed to add more investment capital, he was forced to pull out because he lacked extra money to invest.

Whenever he had time apart from work, Wu took advantage of opportunities to advance his skills and under­stand­ing of cutting, pattern making and design. Looking back now, he believes that his thirst for learning came from his father. He would go on to work at various jobs, including cleaning leather and making clothes to order for guests at hotels. It was in this period that he welcomed his life’s first big turn for the better.

A life-changing encounter

When Wu Jer-ruey was tailoring shirts for foreign guests of hotels, he was often required to embroider English names. Back then few locals were up to the task, so he went to the Tai­pei Vocational Training Bureau to learn machine embroidery. The course included instruction on how to prevent puckering, including by mounting embroideries on cloth backings. The process caught Wu’s interest and prompted him to take another course on the mounting and framing of artworks. Afterwards, he decided to open his own mounting and framing business. But upon encountering the requirements of individual clients, he discovered that it wasn’t an easy business after all, so he began a journey of studying under masters.

To learn the techniques for making “album leaves” (ceye), wherein illustrations are mounted and bound in book form, Wu recounts how he paid NT$20,000 to be instructed by a master. Because he had previously already viewed the entire process, on the first day he asked the master four questions, but the master couldn’t answer any of them, so Wu walked out. Wu says that losing that NT$20,000 was no big deal, because money is for spending, but if he had carried on he could never have got the time back.

If he couldn’t learn the craft from a master, he decided, he would go into selling art mounting materials, so he applied for a sales job at what was then the largest company in the mounting materials trade, He­tai. But as it turned out, the company’s boss had recently died of cancer, and before he died had asked his goddaughter to return as bookkeeper in preparation for closing the company.

“I told them how disappointing it was to find them only to learn that they were closing. If they shut down, there would hardly be any such companies left in Taiwan.” The bookkeeper explained that there was no one to handle sales now that the owner had died. Wu volunteered to take on the responsibility of sales for the company, which had been around for more than 20 years, and he later convinced the bookkeeper to buy the company from her godmother, the late owner’s widow.

Afterwards, when he delivered goods, Wu would also observe the techniques of the companies that received them.

After spending all day delivering and observing, he would quickly return home to try out the techniques he had witnessed. If he encountered an issue doing it himself, he would find an excuse to go back even if the client hadn’t placed a new order. In this manner Wu would observe, study and gain mastery, so that later, when he employed 30-some-odd craftsmen, none of them needed to seek outside training. And as fate would have it, the move to He­tai was more than just a professional turning point: Wu would end up marrying the late owner’s goddaughter.

A second turning point

Opportunities come to those who prepare for them, and Wu Jer-ruey would enjoy a second fortuitous twist of fate. The Tai­pei Children’s Recreation Center holds an exhibition of traditional arts and crafts at the end of each year, where Wu would teach art mounting in order to promote the craft.

One year, a mother had brought her daughter to see the exhibition, and because it was near closing time, most of the stalls had already shut up. “She said that it was too bad the other stalls had closed and couldn’t be seen, but I said that I could at least unpack my half-packed stall and give them a look.” It led to an exchange of name cards with the girl’s mother—Hung Shu-fen, head of the Special Collections Division at National Taiwan University Library. It was through that connection that Wu would end up working for eight years with seven others on the restoration of the “Dan Xin Archives.” The archives comprise some 19,000 Qing-­Dyn­asty official documents dating from between 1776 and 1895, from the Dan­shui Sub-Prefecture, the Tai­pei Prefecture and Hsin­chu County.

Shortly thereafter, there came new challenges with a University of Tokyo project to restore stitch-bound books. On the recommendation of National Taiwan University Library, Wu worked with National Central Library experts to learn techniques for repairing stitch-bound books. He has thus become one of the rare experts in Taiwan with experience in restoring not only calligraphies and paintings, but also historical documents and old books.

Passing on a legacy

Wu flips through some of the colored papers he has developed, which he uses in his restorations. These are also suitable for use by artists for special purposes. One of his papers, “Summer Wind,” was created by accident. His house had been flooded, and after the water was removed, they discovered that some packs of paper that had been standing on the floor had acquired a unique pattern of lines that was quite pretty. Afterwards, he conducted tests with various quantities of water and consistencies of paper, making a series of adjustments before finally creating a type of paper with a distinctive pattern.

Wu has a special approach to teaching apprentices. He is completely open with his team, and holds back none of his expertise and techniques. He believes that only when everyone is openly contributing what they have developed can innovations occur and advances continue. It is his responsibility to foster each student’s special qualities and potential.

Currently, he’s working with a Vietnamese student named Bui Tien Phuc, who says: “I think that Vietnam needs these kinds of restoration techniques. Our teacher has a great sense of humor, and he is both good at his craft and good at teaching it. Not long ago, he went to Malaysia and Vietnam to teach about restoring old books.”

Another student of Wu’s is Chou Wei Hsiu, a graduate of the master’s program in innovation and design at National Tai­pei University of Technology. “Before coming to study with Wu, I did a lot of research,” notes Chou, “and what I’ve ended up learning with him has truly met my expectations.”

Wu sincerely believes that there is a duty toward history involved in restoring old things. One couple brought Wu an antique collection of nan­guan musical scores to restore. Wu refused payment, but he hopes to have the restored work scanned as an image file and placed in the collection of the Tai­pei City Archives. Many of the musical pieces in this 300-year-old collection have been lost from the nan­guan tradition, but after restoration there is a chance that they can be performed again. Regarding his own future, Wu hopes he will have the opportunity to restore paper documents found in archeological excavations. Whether he actually will is hard to say—because his life so far has consisted of one surprise after another.

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